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陽炎型雑感

不知火の艦橋について

 キスカで大破した「不知火」は、内地へ回航後、失われた艦首と艦橋を新造して復旧工事を行った。この時作られた艦橋は夕雲型と同じだったと言われているが、実態はわかっていない。何しろ1枚の写真もないからだ。  同じように艦橋を新造した艦に「春雨」がある。こちらは資料が残っていて、写真もあるのだが、その形状は羅針艦橋こそ夕雲型に似てはいるものの他は異なっていて、完全なオリジナルになっている。実は、「不知火」の新しい艦橋も「春雨」と同じ形なのではないか、と考えていた。白露型(海風型)と陽炎型の艦橋はほとんど同型だからだ。

 ところが、どうもそうではないようなのだ。
 
 「不知火」の『甲板敷物等配置』という図があって、一番煙突より前の各種甲板の敷物を示した図なのだが、これが復旧工事後のものなのである。それほど精密ではないが、船体と艦橋の諸甲板平面が描かれているので、新造部分の形状を考察する上で貴重な情報をもたらしている。今回は、この図をもとに「不知火」の艦橋について考えてみたい。

 ありがたいことに、この図にはフレームNo.が記入されているので、位置を合わせて、艦橋の平面図を積み重ねていく。すると夕雲型の艦橋が出現するのである。図の性格上、側面図がないので、完全に解明できるわけではないが、それでも復旧後の「不知火」の艦橋が、夕雲型の、それも後期型の、艦橋と同じであったことがわかる。 ただし、全てが夕雲型と同じではなかったようで、艦橋前の銃座などは陽炎型と同型に描かれている。また、頂部の方位盤は円の中に「方位盤」としか書かれておらず形状がわからない。夕雲型と同じ大型の方位盤を載せていた可能性はゼロではないが、D型砲を載せていない「不知火」に、あのような方位盤が必要だったとは思えない。実際、同時期に艦橋を新造した「春雨」の方位盤は大型化していない。このことから考えて、「不知火」の方位盤は陽炎型と同じものだったのではないかと思う。

  以上のような点を踏まえ、この図を元に夕雲や沖波の図を参考に作図してみたのが下の図である。

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船体部分に関しては内部構造や主砲位置などを含め、陽炎型から変化はない。カッターのダビッドも陽炎型と同型。

艦首の敷物は基本的に陽炎型と同一だが、艦橋下から舷梯にかけてリノリウムが貼られているのが異なる。

k4-5.jpg

不知火の艦橋天蓋は後部が角ばった形で、夕雲型とは異なった印象を受けるかもしれないが、巻波の写真をみると、巻波の天蓋も同じ形をしている。このような天蓋の艦は案外存在しているのかもしれない。調査表では、天蓋に13ミリ単装機銃1基を載せていたと書かれている。

春雨の写真から考えると、艦橋の正面と側面、旗甲板の左右後端には、おそらく逆探がついていたはず。

巻波の写真を見ると、窓の上下に防弾板を貼っているのがわかる。夕雲の竣工時の写真では、この防弾板が無く、図にも描かれていない。つまり、これは後付けだということだ。夕雲型のキットは、夕雲の公式図に準拠しているのか、この防弾板が再現されていなかったりする。窓の上部分にプラ板の細切りを貼るだけで、写真の印象にグッと近づくと思うのだけど。

Shiranui 1943.Nov
After losing her bow due to a lightning strike by a U.S. submarine, Shiranui was restored by connecting the newly made bow and bridge together. In the library of the Yamato Museum, there is a diagram depicting the planes of the various decks of this newly built section. According to this drawing, the new bridge is the same as the bridge of the later Yugumo class. The hull is unchanged from the Kagero type. In other words, after repair, Shiranui was a special ship with the bridge of the Yugumo class on the hull of the Kagero class. This time, I drew a diagram of this bridge.

艦橋直後の第一缶室吸気筒は中央を凹ませていて、それが通常の陽炎型とは異なっている点だ。ここの部分は元々2本の吸気筒から成っていて、その間にスペース(薪炭庫)を設けているのだが、「不知火」は吸気筒のカバーの一部を切り欠いて、スペースの屋根を露出させている。そして、ここが三脚檣の立脚点の一つになっている。

哨信儀は羅針艦橋の側面に張り出し部を設けて、そこに置かれたと考えられる。この場所にあった、12センチ双眼鏡(山川灯付き)は後方に移されたことが沖波の写真で確認できる。

 ちょっとわかりにくいかもしれないが、前檣中段付近の構造。穴あき鋼板で足場を作り、ハシゴへとつながっている。上のフラットに電探が載っている。不知火の前檣についてはまったく資料がないのだが、春雨と同じような形状だったのでないかと思う。ちなみに春雨と不知火の工事完了はほぼ同じ頃になる。
 本来は電探のアンテナから伸びる、導波管の太いパイプが電探室までつながっているのだが、旗甲板を貫通する位置と形状に不明点があって今回は描いてない。

 世界の艦船別冊の「日本駆逐艦史」(旧版)の夕雲型のページには「ブルネイに集結中の夕雲型」と題する、19年10月20日の写真が掲載されている。2隻の駆逐艦が写っているが、どちらも2番砲を降ろしていて、夕雲型ではない。右の駆逐艦の艦橋が大型のように見えることから、艦橋を新造した「不知火」ではないか、との説があるようだ。しかし、これ、よく見ると旗甲板下に電探室が有る。上で述べたように「不知火」は電探室を艦橋内に収めているので、このようなシルエットにはならないはずだ。むしろ電探室の無い、左側の艦の方が「不知火」である可能性が高いのではないかと思う。この時期の駆逐艦が電探を装備していないとは考えがたく、にも関わらず電探室が見当たらないのは、そういうことなのではないか。明瞭な写真ではないので、あくまで参考意見でしかないが。

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 復旧工事後の「不知火」を模型で再現するならば、ピットの陽炎型に(2番砲を降ろした雪風が望ましい)、ハセガワの「朝霜」から艦橋を持ってくれば出来上がるだろう。さらに手を加えるならば、艦橋天蓋や旗甲板の形状を変更し、機銃等調査表などを参考にしつつ機銃を配置し、哨信儀なども追加したい。パーツの調達など結構面倒な割に、出来上がったものは夕雲型と印象があまり変わらないのが難点か。追加パーツを付けて、ピットが発売してくれないかな。

 本来は「春雨」の艦橋と並べて、あああだこうだと言うはずだったのだけど、不明点が消化しきれなかった。色々考えてはみたのだが、あの艦橋はオリジナルな部分が多くて類推がきかないのだ。「春雨」についてはまた後日ということで。その前に特型もやりたいな。時間がないけど。

不知火について 参考資料

グランプリ出版:『軍艦メカニズム図鑑 - 日本の駆逐艦』 日本海軍艦艇写真集「駆逐艦」 学研:19「陽炎型駆逐艦」、51「真実の艦艇史2」 潮書房:丸スペシャル41「日本の駆逐艦Ⅰ」 光人社:「図解 日本の駆逐艦」 「写真日本の軍艦 別巻2」 海人社:「日本駆逐艦史」 原書房:「日本海軍艦艇図面集」 他

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