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続・後期駆逐艦の艦橋周辺について

「潮」の艦橋について考える

 ファインモールドから1/350の「潮」がリリースされた。キットは電探と増設機銃を搭載した、大戦後期の仕様で、19年後半の設定らしい。「潮」は終戦時残存艦艇なので、特型の中でも例外的に大戦後期の写真が残っている艦だ。今回は「続・後期駆逐艦の艦橋周辺について」と題して、大戦後半の「潮」の艦橋について考えてみたい。

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上部艦橋の前・側面が遮風板ではなく窓になっているのがⅡa型の特徴。その高さは遮風板が2に対して1.5。ブルワークが高くなっている関係で、全体の高さは変わらない。

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終戦後に撮られた写真では、天蓋の先端に双眼鏡の架台が立っている。こんなところに双眼鏡を置いた例が他に見られないことから、これは動けなくなってから設置されたものではないかと思う。本来は艦橋前の銃座の右舷に有ったものを移設したのではないか。 右舷のアンテナの形状が変わっている。

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ほとんどのⅡ型とⅡa型は三脚檣の支柱に取り付けられたラッタルで、旗甲板と船首楼甲板間で昇降するのだが、「天霧」と「潮」は、旗甲板後方から一番煙突吸気口上面を経由して上甲板に至るルートで昇降している。矢印のラッタルは終戦後の写真でも確認できる。

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哨信儀を設置するために拡張された羅針艦橋平面。拡張されたスペースには、扉の直上あたりで、新たな支持柱が付いている。調査表の記載では発哨器の位置は左右の張り出しのすぐ後ろになっている。
哨信儀搭載が確認されている「薄雲」も、同じような工事がなされていた可能性がある。

 終戦時の「潮」の写真をご覧になった方は、張り出し周辺の形状が少々異なっていることに気づかれたのではないかと思う。これは哨信儀(発哨器)装備に伴うもので、哨信儀を搭載した艦は多くは、このように艦橋になんらかの改造を施している。「潮」が哨信儀を装備したのは19年の3月であるから、19年4月以降は終戦時の写真のような艦橋であったことになる。
 学研本の折り込みにある「潮」の写真の艦橋は明らかに改造前のもので、2番砲撤去と22号電探搭載が18年の9月であることから考えると、18年の10月から19年の3月の間に撮られたものと考えられる。ファインのキットも艦橋の形状は、この時期のものだ。
 ちなみに13号電探の搭載は19年の8月になるので、細かいことを気にする人は、機銃を減らして、後檣の13号を載せずに作るか、キットの状態で艦橋に手を加えるか、どちらかを選ぶことになる。どちらも手間は似たようなものなので、せっかくだから2個買って2種類作ることをオススメしたい。作る楽しみも2倍になるというものだ。

 「マニラの残照」には「曙」の写真が何枚か載っていて、そのうちの1枚に艦橋が写っているものがある。かなり破壊されているが、「潮」の艦橋形状を念頭に置いて眺めて見ると、いろいろなことがわかってくる。白っぽく写っているのが本来の艦橋構造。磁性の関係で軽合金などの非鉄金属を使っているため、錆びても赤茶色にはならない。故に明るく写っている。これに対して、追加・改造された部分は鉄を使っているようで、錆びて黒っぽく写っている。この黒っぽい部分を丹念に眺めていくと、追加された支柱であるとか、哨信儀の全受器などを見つけることができる。すなわち最終時の「曙」の艦橋も、「潮」と同様な形状であったことがわかる。

哨信儀はよくわからない
 二式哨信儀はトランスミッターにあたる発哨器と、レシーバーである全受器で構成されている。機銃等調査表に記入されている哨信儀の位置は発哨器を示しているので、全受器の位置は写真などから判定するしかない。どちらも謎の多い機械で、細部はおろか寸法すら判明していない。色々な人が色々な図を描いているが、どれも少しずつ違っていて、またそのどれもが実際の写真と少しずつ違っていたりする。シコルスキーさんの新しい大和型の本は、哨信儀については完全にスルーしていて、ちょっとがっかりした。結局、新しい資料が出てこないとどうにもならないということなのだろう。
 駆逐艦に関しては、全受器の位置が不明の艦が多い。「雪風」は戦後の写真が残っているが、哨信儀はどちらも綺麗に撤去されている。発哨器はおそらく羅針艦橋の後方に置かれていたのだろうが、全受器は痕跡が全くなく、見当もつかない。「響」は19年の損傷時の写真が残っていて、艦橋の形状から哨信儀を載せていると考えられるのだが、全受器はどこにも見当たらない。発哨器にも受光部があるので、発哨器単体で運用することも可能だったのかもしれない。

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 発哨器は構造の問題で、設置場所のブルワークを低くする必要があった。秋月型や陽炎型は艦橋側面に新たな張り出しを設けて哨信儀を置いているが、そのブルワークはどれも低い。「雪風」に至ってはさらに一部を切り欠いている。改造された「潮」のブルワークもやはり低いものだ。

 写真は丁型の「欅」の艦橋。二式哨信儀(発哨器)の位置で艦橋側面が切り欠いたようになっている。哨信儀を載せると、なぜブルワークを低くしないといけないかがわかる良い写真。問題は、哨信儀を載せていると思われるのに、「初桜」のように、ブルワークを切り欠いていない丁型や改丁型が存在することだ。
 上部艦橋の側面に置かれているのが全受器。架台は「潮」や「沖波」とは異なり、背面の板が無い。全受器にも細部に相違があったようだ。

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左写真は「沖波」の艦橋部。架台しか残っていないが、左右の張り出しの上部から突き出すように、全受器が設置されている。台座は手旗信号台の取付部を利用しているようにも見える。それにしても本来この位置に有ったはずの手旗信号台はどこに行ったのだろう?
 発哨器は羅針艦橋の拡張部分の矢印のあたりに置かれていたとみられる。発哨器も全受器も、どちらも本体は失われている。

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「潮」(左)と「宵月」。 矢印が全受器。 乙型は艦により位置が異なる。

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全受器の基本形状
 全受器は図Aのような基本ベース上に、受光部やその他の機器を載せ、上には天板を置いて図Bのようなユニットを形成している(各機器のディテールは省略。図はイメージ)。図Cは「欅」の全受器で、左右と背面が開いている。丁型はこの形が多いようだ。図Dは「春月」や「酒匂」が搭載していたもので、天板が大きくなっているタイプ。ちなみに乙型はほとんどがBタイプ。
​ 搭載各艦は艦橋の両舷に台座を設けて、図のようなユニットを据えているのだが、その台座は艦により場所により異なっていて、形状は様々。
 終戦後に撮られた写真を見ると、Aの基本ベースしか残っていない艦も多い。艦橋上部にある謎の枠は、この全受器の架台だったりする。
 全受器は発哨器よりも後から装備されたものではないのか?枠だけ置いて、本体は間に合わなかった艦もあるのではないか?などなど、いろいろな疑惑もあるのだけれど、結局はよくわからない。

艦橋前銃座について
 私は昔から、乗り物や機械などを、同一スケールで並べた比較図のようなものを見るが大好きで、雑誌やネットで見つけると、なんだか嬉しくなってしまうのだ。最近では老猿さんのブログにアップされた機銃の一覧がお気に入りで、何度も眺めている。機銃の側面図はいくつも見ているが、縮尺を統一して並べて見ると別の発見があったりして面白い。これで見ると25ミリ連装と13ミリ連装とでは随分と大きさが違うのだな。実際に並んでいたら大型二輪と自転車くらい印象が違うかもしれない。資料によっては、重量が4倍くらい違っていたりする。 ということは、艦橋前の銃座も、13ミリと25ミリ連装時とでは色々と違うのではないか。機銃換装にあたって支柱などの支持構造がなんらかの補強がされたと考えているのだが、13ミリ機銃時代の詳しい写真が無くて、よくわからない。
 とりあえず、ここでは25ミリ換装後の銃座の変化について見てみたい。

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後方に追加された細い支柱は13ミリ時には無かったものだ。それほど補強に寄与していないようで、簡単に取り外しができる。響の一連の損傷写真では、初期のものには写っているが、途中で撤去されている。

正面には仰角制限器の枠が付く。これも13ミリ機銃の時には無かったものだ。響の写真でも確認できるが、少々形状が異なる。損傷修理後の春雨、入渠中の野分の写真にも同じようなものが確認できる。25ミリ機銃を艦橋前に装備した艦は、標準的に設置していたのではないか。

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機銃の真下には円柱状の部分があって、ここから板状の支柱が下に伸びている。潮や響は支柱が円柱の左右にあるのだが、初霜や春雨は、支柱が前後にあって、位置関係が90度回転している。陽炎型や朝潮型はよくわからないのだが、雪風には、特型のような左右タイプかな?と思える写真がある。模型の雪風は板を三角に組んだ形状の支柱になっているが、この根拠はよくわからない。夕雲型は円柱がそのまま伸びて、1本の太い柱になっている。

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18年にマニラで撮られた「潮」。丸スペと学研本に同じような写真が載っているが、2つの写真は違うもの。同一ではない。どちらかというと丸スペの方がディテールがわかりやすくて良い写真。こちらの写真をいい印刷で見たかった。艦橋前の銃座に、6㎝高角双眼鏡が見える。

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右舷のスキッドビームには補強板?が付く。これは竣工以来の「潮」の特徴。箱絵もそのように描いてある。それほど難しい工作ではないので、箱絵を参考に追加してやりたい。ちなみにこの補強板は浦賀竣工艦の特徴でもある。

 本当はこの後に22号電探に関する話が続くのだが、思ったよりも長い話になりそうなので、一旦ここでおしまいとして、電探に関しては別頁で取り上げようと思う。延々スクロールが続いてはなんだか申し訳ない。

最終時の「潮」の塗装について考える

 先日トップページで「潮」のことを取り上げたら、日本艦研究で著名の、Dan K さんからメールをいただいた。メールには、参考資料として、終戦後に撮られた「潮」の画像が数点、添付されていた。ちなみにKさんもゴジラはとても面白かったそうである。
 さて、画像は次のようなもので、昭和20年の9月から10月に撮影されたものだ。

 このように鮮明な、終戦時の「潮」が見られるとは、ちょっと驚いた。しかもカラーである。艦首を濃いグレーで塗り分けているように見えるかもしれないが、これは影であって塗装ではない。参考に昭和21年の「潮」の画像を載せておくが、濃い色の部分の形が変わっていて、これが塗装でないことがわかる。下は戦前の「白雪」。同じ形の影が写っているのがおわかりいただけるだろう。すなわち、これは艦首のフレアが作り出す陰影なのである。カラーでは影の部分が緑がかったグレーのように写っているが、本来は黒に近い色だったはずで、カラーバランスが緑方向に寄っている可能性がある。何れにせよ、終戦時の「潮」は舷側中央部のような明るいグレーで塗られていたということだ。そしてその明るいグレーも、何か特別な色ではなく、隣に写っている丁型が使用しているグレーが劣化・退色しているだけなのではないかと思う。
(右写真上は昭和21年の「潮」下は昭和7年の「白雪」)

「潮」は迷彩だったのか?

 「潮」が茶色と緑の迷彩に塗られていた、という説がある。根拠は左の画像だろう。だが、私は以前からこの説には疑問を持っていた。終戦後に撮られた、他のどのような写真にも2色に塗られていた痕跡がないからである。大和ミュージアムのデータベースには20年1月末、入渠修理中の「潮」の写真があって、その時点では迷彩にはなっていない。そして今回のカラー画像である。仮に茶と緑に塗られたのが真実だとしたら、半年の間に迷彩に塗って、また元のグレーに塗り直した、ということになる。そんなことあるだろうか?そもそも、この迷彩?の画像は、戦後に撮られたものだ。ガンカメラの映像ではない。色も、全体がやたら茶色いのに、リノリウムが残る一番砲付近はグレーで、何か色彩のバランスが狂っていて、真実の色を伝えていないような気がする。他のカラー写真には緑や茶色はカケラもなく、舷側の塗料の劣化具合から見て、再塗装があったとも思えない。私はやはり迷彩塗装はなかったのではないかと考えている。

 それにしても丁型と並んだ特型は大きくて、やっぱりカッコいいなぁと思った。あらためてDan K さんに感謝である。(2024.2.12)

続・後期駆逐艦の艦橋周辺について 参考資料

グランプリ出版:『軍艦メカニズム図鑑 - 日本の駆逐艦』・『軍艦メカニズム図鑑 - 日本の戦艦』 光人社:図解・日本の駆逐艦 潮書房:丸スペシャルNo.21「特型駆逐艦Ⅲ」・No.41「日本の駆逐艦Ⅰ」 「各艦 機銃、電探、哨信儀等現状調査票」  学研:19「陽炎型駆逐艦」、23「秋月型駆逐艦」、43「松型駆逐艦」、51「真実の艦艇史2」、70「完全版 特型駆逐艦」、「日本の水雷戦隊」 海人社:「日本駆逐艦史」 小高正稔:「マニラの残照」 他

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