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最終時の文月と三日月について

 ヤマシタから睦月型のバリエーションキットがリリースされた。発表されたのは、文月、三日月、皐月、夕月の4艦で、昭和18年以降の機銃を増備したタイプ。シールドが新しくなった12センチ砲など、詳細については模型誌や他のブログ等にゆずることにして、ここでは睦月型の大戦後期の仕様について考えてみたい。

 皐月を除く3艦は、いずれも艦橋前に13ミリ連装、二番砲座に25ミリ連装を、各2基搭載した状態で、おそらく学研の「睦月型駆逐艦」の説を採用したものだろう。この本では二番砲の砲座を拡張したことになっているが、キットは学研本の図のように、わずかに左右に拡がった形状の銃座をパーツ化している。ここに25ミリ連装を2基載せることは不可能ではないが、しかし、どうだろ?
 同じような艦型の峯風型の太刀風が、拡張した銃座を設けて25ミリ機銃を搭載していることを考えると、ちょっと無理があるのではないか。そもそも、本当に25ミリ連装だったのか?この機銃について、もう少し考えてみよう。

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峯風型の「太刀風」。二番の12センチ砲を降ろして、角形の大きな銃座を設けている。睦月型も二番砲の砲座を拡張していたならば、このような大きさ・形状になっていたはず。

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 写真は最終時の三日月。三日月も学研本では二番砲の砲座を拡張して25ミリ連装を2基載せたことになっている。しかし、写真で見る限り砲座は拡張されていない。そして写っている機銃も、どうみても25ミリ連装には見えない。この機銃には中央が大きく開いたシールド(防盾)が付いている。機銃のシールドは照準の関係で、操作員の顔の前で隙間があったり、凹んでいたりする。写真のシールドは中央しか開いていないので、操作員の座席は銃身の真後ろに位置することになる。25ミリ機銃の座席は銃身の横で、中心線上にはない。さらに、後方に弾薬箱が見えるが、縦長の形状は13ミリ機銃の960発入りの弾薬箱に見える。すなわち、この機銃は25ミリ連装ではなく、13ミリ連装なのである。
 艦橋前の銃座を見てみよう。機銃そのものは煙に覆われてよく見えないが、銃座が大きく前に張り出していて、魚雷発射管の防盾後端に接するほどの大きさであることがわかる。光人社の水無月の図は、艦橋前に25ミリ連装機銃2基が搭載された状態で描かれているが、銃座の大きさは三日月の写真と同じだ。
 以上のことから、最終時の三日月は、艦橋前に25ミリ連装2基、二番砲跡に13ミリ連装2基、という状態であったと考えられる。

 さて、文月。
 文月はダイビングスポットになっている関係で、水中で撮られた動画がYoutubeにいくつか上がっている。中に二番砲の砲座を上から撮影したものがあって、砲座が拡張されていないことが確認できる。また、機銃は失われているが、シールドや弾薬箱が残っていて、そのシールドの形状は三日月のものと良く似ている。

  トラック大空襲を題材にした「Hailstorm over Truk Lagoon」という本があるのだが、その中に海底に残る沈船や航空機を取り上げた章があって、文月についても頁が割かれている。それによるとこの場所から13ミリ機銃弾が発見されているらしい。

『The gun midships has been removed. In its stead, anti-aircraft machine guns were installed port and starboard. From the ammunition located in this area it appears that they were single 13.2 mm guns, but it looks as if the gun itself was removed, leaving the mounts and the shields.』
(同書P.169より。単装機銃というのはマウントが小さいための誤認と思われる。機銃が発見されたわけではない)

 残念ながら艦橋は左舷に崩落していて、機銃の状況がわからない。1988年までは外形を保って直立していたらしいので、古い水中写真があれば、何かわかるかもしれない。興味のある方は探してみていただきたい。

  三日月の例と、二番砲砲座の状態などから、最終時の文月の武装も艦橋前に25ミリ連装2基、二番砲跡に、13ミリ連装を2基というものだったのではないかと考えられる。同じように二番砲を降ろした艦は卯月と夕月があるが、機銃等調査表に描かれた卯月の図が砲座を拡張していないことを考慮すると、二番砲座跡に25ミリ連装機銃を置いた睦月型は一隻も無かったのかもしれない。

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13mm機銃について追記
 HDDにしまいこんでいた写真を、ようやく発見。防盾付きの13mm連装機銃は、図のような形状をしている。三日月の写真を拡大してみると、防盾の外縁に折り目が見えるかと思う。二番砲跡に設置された機銃は、図と同じものなのだ。来歴は不明だが、この防盾付きの13mm連装機銃は実物が現存している。
 考えてみれば当たり前のことなのだが、大戦後半の機銃で防盾が付いていたのは25mmだけではなかったはずだ。他艦の13mm機銃も、同様の防盾がついていたのではないか。ナノドレでパーツ化されることを望む。

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三日月の中央部の敷物は変則的。文月も同様であったがどうかはわからない。

ラバウルで攻撃を受ける文月。中央部に小発用ダビットが立っている。

 中央部、二番発射管を撤去したあたりには10メートル運貨船(小発)を搭載することが可能になっていて、左右の舷側にダビットが立っている。松型の小発用ダビットは甲板上ではなく、舷側に貼り付けるように立っていると思う。あれと同じタイプのものだ。
 三日月はダビットこそ立ってはいないものの、舷側に基部が認められるので小発の運用能力は有ったはずだ。最終時は小発は搭載せず、大発を曳航して使用したらしいので、ダビットは出撃前に取り外したか、座礁の際に海中投棄されたのだろう。いずれにせよ写真の状態はイレギュラーなもので、通常は文月同様ダビットが立っていたと考えられる。ちなみに三日月は右舷の魚雷格納筺の位置やスキッドビームが異なるので注意が必要だ。

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 以前、菊月会の方から「文月」の艦内でダイバーが爆弾のようなものを見つけた、という話をうかがった。場所は二番砲砲座の後方だという。これは一体なんでしょうか?と聞かれたのだが、実物の写真を見たわけでも無いので、少々わかりかねます、と返答した。その後、菊月会により件の物体は掃海具の浮標であると特定されたようだ。
 睦月型は対艦式大掃海具二型を搭載していて、定数は小型の浮標が16基、大型の浮標が3基になる。このうち小型の浮標は二番煙突の前のスペースに置かれていた。この掃海具に関しては、図によって描かれていなかったり、搭載艦や搭載数にも不明な部分があり、よくわかっていない。この場所は通常、魚雷格納筺に挟まれて、外からは見えない部分なので写真からはわからない。「文月」は、この対艦式大掃海具が確認できた珍しい例だろう。

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  「文月」のように魚雷格納筺を撤去すると、この部分がよく見えるようになるので、腕に自信のある方は、並んだ浮標を再現してディテールを追加してみていただきたい。小さな浮標を自作するのはちょっと大変かもしれないが。なお、この浮標は本来白く塗られていたが、戦時中の写真の中には暗色に見えるものがあって、実態についてはよくわからない。
 

最終時の三日月について

 最終時の三日月は、缶の減少や機銃の増備など、艦容の変貌著しく、模型的にはなかなか魅力あるものになっている。細くなった煙突や撤去された兵装などに目が行きがちだが、写真を詳細に見ると、細部にも変更があることがわかる。ここではそんな部分にスポットを当ててみたい。

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 中央構造物後端の上面は拡張されていて、後方に張り出している。この部分は3つの支持片によって支えられているのだが、中央のガーダーは途中で断ち切られたような不思議な形をしている。思うにこれ、13ミリ機銃の銃座へと続く回廊の名残のようなものなのではないか。学研本の折り込みにもなっている、昭和16年3月の三日月の図に描かれている銃座の支持構造とよく似ているのだ。田村先生は三日月に銃座は無かった、とおっしゃっているが、私は図に描かれているような、他艦とは違う形状の銃座が有ったのでは?と疑っていたりする。他に根拠もないのだけれど。

 

 後面にある吸気口の下には足場?と手すりが付いている。この足場は開戦前から有ったもので、文月の残骸でも確認できる。吸気口の蓋を付けたり外したりする際の足元のことを考えると、ほとんどの艦には付いていたものではないかと思う。

 揚貨機は三番砲の前にもある。余分なパーツが入っているヤマシタのキットはこういう時に助かる。

 後檣基部付近の両舷には、台座を設けて高角双眼鏡が設置されているのが確認できる。主砲を降ろして銃座を設けた艦は、機銃とセットで双眼鏡が置かれたようで、水無月の図にも同じ位置に6センチ高角双眼鏡が描かれている。
 戦闘詳報の戦訓の項を見ると、対空兵装増備の要望が書かれていることがあって、そこには機銃だけではなく、電探や双眼鏡の搭載について言及されていたりする。対空兵器というのは、火器だけではなく、こうした見張り兵器も指すのだな。
 同じように機銃を増備した、皐月や文月などの艦も高角双眼鏡装備していたはずなのだが、詳細は不明。水無月の図は架台や後檣周辺の様子が三日月とは異なっていて、実際はどのような状態だったのか、よくわからない部分もある。

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拡張された部分の支持構造。左右は普通の三角片だが、 センターの梁は断ち切られたような形をしている。

 

中央の開口部は奥がふさがっていて、通路では無いことが わかる。普段は四角い板かカンバスで蓋がされていたと考えられる。 下の方が紡錘形のような形になっているのは、この部分で左右の 通風筒が合流しているため。

 

左舷の通風口下から細い煙突が伸びているが破損していて、 先端の形状がわからない。

 中央構造物の後面は正確な形状が不明で、以前から疑問に思っていた。色々な図で色々な形に描かれていて、どれが正しいのかよくわからなかったのだ。それが今回、大体こんなことなのだろう、というカタチがようやく見えてきたので、述べてみたい。
 
 構造の後部は2本の吸気筒になっていて、それが1つに合体し、後方に湾曲しつつ下方向に開口している、というのが基本形状。その左右後端には三角形の板が付く。図によって後端が角ばって描かれているのは、この板部分が無いからで、単に描かれていないだけなのか、あるいは実際に無かったのかは不明。詳しくは図を参照していただきたいが、後面は単なる平面ではなく、下部が後方に突き出ていて、先端は断ち落としたようになっていた、というのが正解なようだ。探照灯下が湾曲した通風筒になる、という日本駆逐艦おなじみの構造がここでも見られるわけだ。
​ 文月は中央の開口部が長方形になっていて、下方の紡錘形部分がない。おそらくこれがスタンダードな形状だったのではないか。

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最終時の文月と三日月について 参考資料

グランプリ出版:『軍艦メカニズム図鑑 - 日本の駆逐艦』 原書房:「昭和造船史別冊(日本海軍艦艇図面集)」 光人社:「図解・日本の駆逐艦」 「写真日本の軍艦 別巻2」 潮書房:丸スペシャルNo.51「日本の駆逐艦Ⅱ」 学研:51「真実の艦艇史2」、64「睦月型駆逐艦」 「海軍水雷史」 Pacific Press Publications:「Hailstorm over Truk Lagoon」 他  

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