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友鶴は青かったか?

 先日、調べ物があって「海軍水雷史」をひっくり返していたら、友鶴事件の回想が載っているのに気づいた。「友鶴事件」「第四艦隊事件」「臨機調事件」は昭和の造艦史を語る上で欠かせない重大事件だが、当事者の回想のようなものは少ない。その中に気になる一節が有った。それは事故後の「友鶴」に関する部分で、
 
〜無残にもわが友鶴は暗緑色塗料そのまま艦底を風浪の間に隠顕させつつ漂流しておるではないか。
(p579 筆者は当時の真鶴艇長)
 
という一文である。えっ、暗緑色?赤ではない?船体ではなく艦底?驚くと同時に、これと似たような内容をどこかで読んだぞ、とも思った。 そこで、また色々ひっくり返して見つけてきたのが、堀元美「駆逐艦」。
 
〜竜田は御神島灯台の南方2浬に青い色に塗られた潜水艦のような物を発見した。〜これこそ変わりはてた友鶴の真倒様に転覆して漂流している艦底であった。(P187)
 
 ここでは艦底は「青色」になっている。最初読んだときは誤植かと思った。ただし、この、青色とか潜水艦のような、という部分は堀元美本人が実際に目視したものではなく、事故査定書からの引用らしい。当時調査に当たった松本喜太郎の遭難査定書にまったく同じ表現があるからだ。
 
〜青色塗料を塗粧せる喫水線下艦底の大部および舵、推進器を露出し一見司令塔なき潜水艦のごとく〜
(アジ歴にある事故報告書には、この『青色塗料』のくだりが省略されている)

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 いずれにせよ、ここでも「青色」となっている。「青」なのか「緑」なのか?色の印象には個人差があるが、表現の仕方にも個人差があり、かつ時代による名称の相違もある。青信号は緑色だし、青果は実際は青いわけではない。「青」の範囲は広く、「暗緑色」も人によっては「青」と表現するかもしれない。

 色の記憶はあてにならない、とも言うので、もう少し探してみた。すると事故報告書の中に左のような図があるではないか。これを見るとひっくり返って水面下になった部分は「鼠色」、露出した艦底部分は「ベネジアン」と書かれているのである。

 「ベネジアン」とはなんだ?

 「ベネジアン」とは

  「ベネジアン」は色名ではなく、塗料の種類で、1860年代にイタリアのMoravia(モレビア社)が開発した船底塗料。「モラヴィアン」とも呼ばれ、緑色をしている。その組成にロジン(樹脂)を多く含んでいるのが特徴で、軟質の固体を60〜70度に加熱、溶解したものを刷毛塗りして使用する。感覚的には、ロウソクを熱で溶かして筆で塗るようなものを思い浮かべてもらえば、これに近いかもしれない。その塗装方法からホットベネジアンと称されることもある。毒性物質に銅と砒素の化合物であるパリスグリーンを使用していて、ベネジアンが緑色なのは、この顔料に由来している。水中では塗膜表面が粉をふいたように白く変色する特性があり、粉状になって剥脱しやすくなった表皮は、貼りついたフジツボなどとともに剥離して、水中生物の付着を防いだ。また、常に新たな塗面を露出することで内部の毒物を表出させ、防汚作用を長く持続させることを可能にした。
 ベネジアンは塗料の性格上、厚塗りになる傾向があって、その塗膜の厚さは一般的な溶剤系塗料に比して、4〜5倍にも及んだ。一般的に塗料の耐久性は塗膜の厚さに比例するが、通常の艦底塗料の寿命が半年ほどなのに対し、ベネジアンの有効期間は1年半に達したと言われている。 高い防汚性能と耐久性を兼ね備えたベネジアンは当時最高の艦底塗料であったが、反面、塗装作業の手間と、塗膜を薄く均等にすることが難しい、重量の増加などの問題と、工費が高いなどの欠点も抱えていた。

 ベネジアンと日本海軍の邂逅は、1904年、イタリアから購入した装甲巡洋艦、「日進」「春日」の艦底に塗られていたものが最初で、付着生物の少ないことに興味を持った海軍は、この塗料を輸入、以後、主力艦の艦底に使用したとされる。当時、国内に大型艦が使用できるドックは少なく、有効期間の長い塗料を使用することで、入渠間隔を延ばすことができれば、艦隊運用や費用など、様々な面で利点があった。海軍は戦艦や巡洋艦などの大型艦に使用する目的で、ベネジアンを導入したのだった。具体的に、どの艦が、どのくらいの期間、使用していたのか、詳しいことはあまりわかっていないが、記録に残っているものとしては、大正14年の「行動用燃料費額ニ関スル件」という文書に、第一艦隊第一戦隊の陸奥・日向・山城がベネジアン艦底塗料を使用した、という記述がある。すなわち屈曲煙突の「陸奥」は一時期艦底が緑色だったことになる。
 大正14年、大阪の東亜ペイントは、ベネジアン塗料の国産化に着手、海軍工廠の協力のもとに試作と実験を繰り返し、昭和9年、東亜ペイント製の国産ホットベネジアン塗料が完成、同年正式に採用された。

 昭和22年、東亜ペイントでベネジアンの開発にあたった大島重義は、同社発行の「ペイント」誌上において、「連合艦隊と船底塗料に関する裏話」と題して当時を回想し、その中で 「〜昭和15年に軍縮条約期間満了とともに無条約時代に入り、建艦競争が再燃したのでした。かくしてわが国の連合艦隊の編成は大型の戦艦、巡洋戦艦、航空母艦を主力とするに至り、これらの最重要の軍艦は新造にも塗替にもその船底は悉く東亜ペイント会社が海軍から単独指名をうけて製造したホットベネジアン船底塗料を塗装したのでありまして〜略〜船底塗料の海軍への納入数量は軍艦の増加と共に年々ふえて、太平洋戦争の終戦となるまで続きました次第であります。」 と記している。
 ところがである。
 大島の言うような事実はどこにもないのだ。
 戦後、米軍は日本海軍が使用した船底塗料に関するレポートを作成しているが、ベネジアンは戦時中、実質的に使用されなかったと報告している。その理由としては、戦争が進むにつれて、作戦海域が次第に狭まり、入渠が頻繁に行われるようになり、ドックにいる時間も短くなったため、としている。つまり戦況が、有効期間の長い艦底塗料を不要にしたということだ。
 大戦中にベネジアンが使われなかったのは事実かもしれないが、戦争の影響というのは少し違うのではないかと思う。開戦前に、すでにベネジアンの使用は限定的になっていて、防汚塗料としてはあまり用いられていなかった形跡があるからだ。その理由は不明だが、おそらく前述の欠点によるものだろう。

 ベネジアンの問題点が、いかほどのものであったのか。昭和2年発行の「蔵前工業会工業調査会化学工業部調査報告書」の中に、ベネジアンに関して次のような記述がある。

〜摂氏六十度乃至七十度に加熱して液状として使用す。 表面は小沸騰を為す位に保たしめ決して蒸発する程度に過熱すべからず、本塗料を加熱する時は含有する毒剤を分解せしめて効力を減退せしむるのみならず有毒なる瓦斯を發生して作業上大なる困難を来す故に二重底釜を使用し蒸汽溶若くは油溶として用ゆるを宜しとす。 〜略〜使用量は三萬噸級の戦艦に対し約十噸 (普通船底塗料の約七倍量)を要し使用塗工延人員約百六十人(普通船底塗料に對し約四倍)を要す。 

要するに、釜を直接火にかけるのではなく、蒸気で温めないと毒がガスになって出て来ちゃうよ、ということだ。しかも7倍の材料と4倍の人手が必要になる。こんなに手間のかかるものを戦艦の巨腹に塗った、昔の人は本当にエライと思う。
 年代は不明だが、別の資料で、ベネジアンの価格に言及したものがある。それによると、一平方メートルあたりの代価が、ラヂンの艦底塗料が34.3銭(1号9.6、2号24.7)に対して、ベネジアンは91.5銭(1号7.2、2号84.3)となっている。ラヂンも輸入塗料でお安くはないのだが、それでもベネジアンほどではない。輸入塗料の価格は、時機や商社によって異なるので、参考に止まるが、ここにさらに倍の工賃がかかってくるわけだから、果たして入渠間隔が多少延びたとしても割が合うのか?という疑問が出てくる。 「モラヴィアン」の効力を認めていた米海軍ですらも、その評価に「expensive and difficult」としているくらいであるから、日本海軍が新造艦の艦底を「悉くベネジアンで塗装」できたとは思えない。国産化して、多少価格が下がったとしても、元々が倍量を必要とする塗料である。手間や工賃は変わらないわけだから、艦が大きくなるにつれ、数が増えるにつれ、色々と無理が生じるであろうことは想像に難くない。これがベネジアン退潮の理由だろうと思う。

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溶解に蒸気を使用しているのは、水の沸点以上に温度が上がらないため。

 

図のようにして溶かした塗料は、冷えるとすぐに固まるので、手早く作業する必要があった。ベネジアンの作業風景は、塗装というよりも左官に近いものがあったらしい。ちなみに、塗替えの際に、古い塗料を剥がすのも、一般的な塗料よりも、大分手間がかかったようだ。こんな思いをしてまでベネジアンを使ったのは、当時の船底塗料に良質なものが無かったからで、19世紀末から20世紀前半にかけては、鋼鉄船自体の歴史が浅いこともあって、船底塗料に関しては、各国とも試行錯誤の時代でもあったのだ。

 長々と書いてきたが、以上の証言・事実から、新造時の「友鶴」の艦底は『緑色』だったのは間違いないようだ。本来、大型艦に使用されるはずのベネジアンが、なぜ「友鶴」のような小艦の艦底に塗られているのか?明確な解答は得られなかったが、古い資料に、以下のような記述があった。 「〜長年月入渠シ能ハザル處ニ趣ク時或ハ水雷艇ノ如ク外板薄クシテ防御上経済ヲ考ヘザル如キ場合ノ外用フルコト少ナシ」ここで言う水雷艇とは、明治期の初期の水雷艇のことで、ベネジアン(モラヴィアン)を使用した、とも読める。この件については、もっと検証が必要だが、旧型の水雷艇の艦底がベネジアンだったので、それを踏襲した、ということなのか?どうもよくわからない。

6/5追記
明治38年の公文雑輯別集の巻9に「艇隊現状報告」という書類があって、その中に一八艇隊の第六十号艇と第六十一号艇がベネジアンを使用していたことを示す記述がある。(表記は「ベネジユアン」)六十号と六十一号というのは「シーショウ型」と呼ばれるタイプで明治期の水雷艇では一番数が多かった型だ。他の水雷艇も同様だったかは不明だが、実際にベネジアンを使用した水雷艇があったことは間違いない。仮に、水雷艇にはベネジアンを使用する、という規定のようなものがあったとすれば、それを適用した結果が「友鶴」の艦底塗料だったのかもしれない。

 ところで、問題は、その塗り方と、肝心の『緑色』はどのような色だったのか?ということだ。

 

引き揚げられた「友鶴」。舵や艦底部分(ベネジアン)と水線付近とで、色調が違っているのがわかる。

 同型艦の「千鳥」は、建造も同じ舞鶴工廠だ。運用上の問題を考えると、「千鳥」と「友鶴」で艦底色を変えたとも思えないので、「千鳥」もベネジアンを使用していた可能性が高い。「千鳥」には進水式の写真があるが、これをよく見ると船体が変わった塗装になっている。水線部が濃い色で帯状に塗られ、下部はやや明るい色になっている。艦首に吊るされた薬玉の色が赤と白であることを考えると、水線部は赤色かもしれないが、艦底が同色とは思えない。これはベネジアンなのだろうか?

 どうもそうではなくて、これは下塗りの一号塗料ではないかと思う。ベネジアンの一号塗料は東亜ペイントのレシピが残っていて、酸化鉄の顔料を使用しているので、色は褐色系だったようだ。ベネジアンは下塗りと上塗りで色を変えることによって、塗装の不良を防いだ、とする説がある。下地が透けて見えるところは塗膜が薄い、すなわち不良箇所ということだ。

 一号塗料の状態で進水、艤装後に再度ドックに引き揚げて、塗装を落とし、再び水線部分の塗装と下塗りののち、二号塗料であるベネジアンが塗られることになる。国産ベネジアンの実験に関する資料には、ベネジアンは剥離の問題があって、水線付近を避けて塗られていたことを示唆する記述がある。これは想像だが、吃水付近を帯状に赤の艦底塗料で塗り、その下を緑のベネジアンで塗装したのではないか。竣工時の友鶴の写真では、水線付近はかなり暗い色に写っていて、事故後の写真にあるような明るい艦底色とは別色のように見える。また、引き揚げ後の写真の中には水線部と艦底部では塗色が異なるように見えるものがあったりする。軍艦が商船のような水際塗装をするのか?と言う疑問もあるので、これはあくまで可能性でしか無いのだが。

さて、問題の緑色の色調だが、イタリア艦の塗料セットの中に「Verde-Scuro-Antvegetativo」という緑の艦底色があって、これが「モラヴィアン(ベネジアン)」の色ということになる。なんというか、ゼロ戦色で、確かに「濃緑色」だ。大戦機のカラー写真でも青みがかって写っているものがあるから、「青い」というのも、実際にそう見えたのかもしれない。これが「友鶴」の艦底色だろう。

左はモラヴィア社の広告に描かれた「モラヴィアン」の塗装風景。右が「Verde-Scuro-Antvegetativo」。スケールを考えると模型に塗る場合はもう少し明るくてもいいのかな?とも思う。

色々書いてはみたものの結局、竣工時の「友鶴」をフルハルで作るのでなければ、どうでもいい話で、そんなものを作ろうという酔狂な御仁がいるとも思えないわけだが。そんな風に考えていたら、先日、「友鶴」の大型模型を作ってRCで水上走行させたい、とお考えの方からご連絡をいただいた。世の中スゴイ人がいるものである。感心しました。艦底は、是非、緑色でお願いいたします。走行中の動画を公開していただけると嬉しいです。

中央構造・他について修正
新造時の千鳥型について、写真や図をあらためて検討した結果、いくつか判明した点があるので、「友鶴」の図を修正します。 修正点は以下の通り。

中央構造物の再検討。 千鳥と友鶴・真鶴とでは形状が異なっている。友鶴・真鶴は下の甲板室が一段低くなっている。友鶴の損傷見取り図に描かれた中央構造物を写真と比べてみると、実艦は明らかに機銃と探照灯の位置が低い。なぜこのようなことがあるのか?だいぶ悩んだが、おそらく損傷見取り図は千鳥の公式図を元に描かれているからではないか。結局、損傷の位置と度合いがわかればいいのだから、細部が多少異なっていても支障ないのだろう。このような事例は他にもあって、特型の「叢雲」は戦前、接触事故を起こして、探照灯が甲板に落下するほどの損傷を受けているが、その事故報告書にある損傷見取り図は、長船首楼型の要件を満たしておらず、細部の描き方からみて、どうも「白雲」の公式図をベースに描かれているようなのだ。こうしたことは我々が知らないだけで、珍しくないのかもしれない。

銃座の下部構造と弾倉の設置場所。銃座の支持構造は少々複雑だが、「千鳥」の写真、「友鶴」の損傷図と写真などから、形状が判明。「友鶴」の銃座は「千鳥」と同じ構造であったが一段低くなっていた。銃座には弾倉の置き場が付属していたが、その支持構造には不明な部分がある。改善工事後はさらに銃座が低くなり、拡大している。

探照灯下の部分はトラスのような構造で、素通し状になっている。これは写真でも確認できる部分で、改造後の千鳥型もこの構造を引き継いでいる。

船体は、一番砲付近で断面形状が変化していることが判明。舷側は艦首シェアのカーブの通りであるが、中央部は砲下の鉄甲板部分が水平な平面になっていて、盛り上がったような状態になっている。この状態は改善工事後も同様。写真は改造後の千鳥の一番砲だが、よく見ると以前の鉄甲板部分がうっすら変色しているのがわかる。そして、甲板のリノリウム押さえが元の鉄甲板の位置で折れているのが確認できる。

​以上を踏まえて以前のページにあった「友鶴」の上側面図を訂正しておきました。

友鶴は青かったか 参考資料

「海軍水雷史」 海人社:「日本駆逐艦史」 世界の艦船 2013年1月号増刊 学研:45「真実の艦艇史」 ダイヤモンド社:「日本海軍艦艇写真集 駆逐艦」 「船底塗料」 本原忠納言 「船底塗料」 大島重義(1942) 「蔵前工業会工業調査会化学工業部調査報告書」(1926) 出淵巽 ほか「船底の汚れに因る船體抵抗の増加」『造船協會會報』(1955)  USNTMJ-200I-0552-0583 Report S-59  Marine Fouking and Its Prevention  他  

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