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特Ⅱ型資料編         

7駆のマーキングとⅡA型の相違点(後編)

 写真は昭和16年10月「加賀」から撮られたⅡA型で、5枚組の1枚。荒天のため波が高く、舷側が隠れているため、艦名不詳となっているが、これは「曙」である。

 「曙」の特徴は上部艦橋にあって、前面に従羅針儀(?)が付く。ⅡA型では曙だけの装備だ。写真では見づらいが、上部艦橋前面にそれを確認することができる。この写真もそうだが、ⅡA型はなぜか左舷からのショットが多い。本当は両舷とも鮮明な写真があるのが望ましいが、公式図は右舷から描かれているので、左舷のディティールが見られる資料はありがたい。左からの写真で判るもののひとつが烹炊所煙突の配置で、ここに「潮」と「曙」の相違点がある。

 「曙」と判定できるポイントはもう1点。上部艦橋にとりつけられた長いアンテナで、昭和14年の写真でも同じものが確認できる。このアンテナが付いているのは改善後のⅡA型では「曙」だけ。同じものが昭和16年10月の「狭霧」にも取り付けられているが、このときの20駆で確認できるのはやはり「狭霧」だけ。どうも1駆逐隊で1艦だけの装備のようだ。時期によっては無かったり、開戦後は取り外されていたり、何か演習と関係があるのか、謎な装備だ。

潮の識別点

図のとおり、「潮」の烹炊所煙突は、一番煙突側面で折れ角があり、旗甲板とのすき間が無い。これらは戦前の写真と戦後の写真の両方で確認できるもので、戦時中も変わらなかったものと考えられる。このポイントに着目して写真を眺めてみると、従来「潮」とされていた写真の中には、そうではないものがあることに気づく。

「一水戦戦時日誌(17年2月)」より。キスカで損傷修理中の不知火の写真をよく見ると、一番煙突に白帯が薄く残っている。18駆は二水戦なので、一番煙突に帯を記入することはない。それはこの時書かれたものなのか。

 上の写真は昭和17年4月25日、大湊における「潮」とされるものだが、先ほどの相違点に注意してみると、旗甲板と烹炊所煙突とが離れていて、これは「潮」ではないことがわかる。二番煙突の後方には背の高い吸気筒が写っているが、前編で見たように、「漣」であるならばベンチレーターよりも低いはずだ。

 この写真に関しては出沼ひさしさんが考察していて、おそらく昭和17年4月末のトラックで撮影されたものではないかとおっしゃっている。すなわちこれは昭和17年4月のトラックにおける「曙」ということになる。そして一番煙突に描かれている逆コの字は、おそらくカタカナの「ロ」(烹炊所煙突によって縦線が隠れている)なのである。

 17年の2月25日に駆逐艦の煙突標識に一部変更があって、機動部隊所属の、空母に随伴する駆逐艦の標識は、白帯とカタカナ(イロハニ)になった。このとき対象になったのは4、17、18、27の各駆逐隊で、7駆は対象になっていないのだが、4月10日に空母の護衛を目的とした10戦隊が新たに編成されて、7駆は10駆、17駆とともにこの部隊の所属になっている。その10戦隊の艦船番号標識が、カタカナではなかったかと考えられるのだ。少々あいまいな言い方になってしまうのは、10戦隊編成時の戦時日誌であるとか記録などが公開されていないからで、推定に依らざる得ないためだ。

 10戦隊のマーキングについては謎の部分があって、「日本駆逐艦煙突識別線の変遷」(世界の艦船1995.5)では「第2煙突の中部に太い白線1本を記入して一般の水雷戦隊所属艦と区分した上、第1煙突に戦隊内の順序を示す通常の白線を記入していた。」となっている。ところが上の写真は、1番煙突に艦船番号記号、2番煙突に隊番号の白帯プラスやや太い白帯、という構成だ。 一体なにが正しいのか、残念ながら私には検証するだけの資料と能力がないので、興味は持たれた方は出沼ひさしさんのような、もっと専門の方にお尋ねになってみていただきたい。

 

 話を先ほどの写真に戻す。煙突に描かれた文字が「ロ」だとすると、これは二番艦ということになる。前編をお読みいただいた方は、7駆の二番艦は「漣」では?と思われたかもしれない。確かに開戦時の編成は潮・漣・曙の順であったのだが、4月から5月にかけて(もう少し早いかもしれない)は、潮・曙・漣に順番が変更されている。このことは珊瑚海海戦の7駆の戦闘詳報によって確認できるものだ。したがって、二番艦「曙」であることは、時期的にみて間違いではない。

 色々と推測を交えて話を進めてみたが、外形的な特徴、記号変更の事実などをふまえて、この艦が10戦隊7駆二番艦「曙」で、煙突に描かれた記号はカタカナの「ロ」だとすると、きれいに説明できるのだけど、いかがなものだろうか。

 ちなみに珊瑚海海戦は写真の状態で参加したと考えられるのだが、5月の7駆は10戦隊の二番隊であったようで、二番煙突に書かれた細い白帯は2本になる。珊瑚海海戦時の塗装推定図を左に示す。 そして6月のミッドウェイ海戦(アリューシャン作戦)時には再び編成が潮・漣・曙の順に戻り、艦船番号記号も図形の統一記号になり、下図のように変更されたと考えられる。

なぜ7駆の艦船番号記号は大きいのか

 先ほどの空母警戒隊の記号に関する文書をよく読んでいただきたいのだが、煙突に描く識別符号(艦船番号)の大きさが「縦幅一米半」となっていると思う。Ⅰ型のマーキング解説で書いたように、開戦時の三水戦の記号が約90センチ、その後の統一符号の大きさが80センチであったことを考えると、この大きさは倍近いものだ。その理由は明確ではないが、おそらく空母随伴の駆逐艦は、通常の水雷戦隊所属艦のように密集隊形をとらないので、個艦の距離が大きくなるために、より大きな記号が必要だと考えられたのではないか。

 一番上の写真にあるように、開戦時の7駆は赤城・加賀と共に第一航空戦隊の所属であった。航続力の関係でハワイ作戦には参加できなかったものの、本来の役割は空母の随伴艦だ。前編で見た7駆の識別符号(ひらがな)の天地は、約1.5メートルほどで、さきほどの文書と同じだ。1.5メートルという数字は、元々航空艦隊所属の駆逐艦の規定にあったものではないだろうか。すなわち航空艦隊所属艦であるがゆえに、7駆の識別符号は大きいのである。 航空戦隊の駆逐艦の識別符号が大きいとすれば、第2航空戦隊(蒼龍・飛龍)所属の23駆の睦月型(菊月・卯月・夕月)の煙突にも大きなひらがなが書かれていた可能性がある。多分それは二番煙突に記入されていただろう。どこかから写真でもでてこないものか。

 

 それにしても初期の機動部隊の駆逐艦が大きな符号を書いていたとしたら、ハワイ作戦の駆逐艦はどのようなものを書いていたのだろうか?元々の一水戦、二水戦の小さなものなのか、機動部隊用の大きなものなのか。ハワイにしてもインド洋にしても駆逐艦の写真は見たことがない。そう言うと、「不知火」の写真があるじゃないか、といわれるかもしれない。確かにそのとおり。一番煙突に「ろ」の字を書いた写真がある。でもこれ本当は「不知火」じゃないのでは?なぜ、そう思うか。その話は長くなるので、またの機会に。(2016.5.29初出)

おまけ

 これは改善後の公試中の潮の写真でおなじみのもの。一番煙突を見ていただきたい。白線が1本書かれている。この白線、よく見ると煙突頂部の黒色塗装部と平行になっておらず、斜めに書かれているのである。これは昭和11年秋の演習時に試験的に導入された斜めの帯標識で、当時四水戦だった、7駆・11駆・12駆の特型の一番煙突に記入されたもの。この写真はよく見かけるが、この件にふれたキャプションは見たことが無い。導入はしてみたものの、結局斜め帯は不採用になった。理由は見てのとおりで、煙突自体が傾斜しているので目立たないのだ。斜め帯は昭和15年の演習時にも再度試みられていて、この時対象となった6駆の「雷」の写真が「真実の艦艇史」のP77に載っている。前回の反省からか、斜めの角度がより大きなものになっている。

7駆のマーキング編(後編)参考資料

ダイヤモンド社:「日本海軍艦艇写真集 駆逐艦」 丸スペシャルNo.98「北方作戦」 丸 1986年8月号 世界の艦船1995年9月号 アジア歴史資料センター: 第1水雷戦隊戦時日誌 C08030080700

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