塗装とマーキング
●駆逐艦の識別システムについて
昭和16年11月末、臨戦準備に入った各駆逐艦は、舷側の艦名や隊番号、煙突の帯など一切を船体色で塗りつぶしたのだが、一〜四水戦の各艦はそれに加えて艦船番号の記号を煙突等に記入していた。その内容は水雷戦隊により異なっていたようで、どうも意図的に変えていたのではないかとも考えられるが証拠がない。ちなみにその内容は下記の通り。(推定を含む)
一水戦・・・・・ひらがな ※注1
二水戦・・・・・ひらがな ※注2
三水戦・・・・・図形 ※注3
四水戦・・・・・数字 及び ひらがな
ここで言う「艦船番号」とは、各駆逐隊内の司令駆逐艦を一番艦とし、以下四番まで順番にふっていったもので、大雑把に言えば単縦陣で航行する際の順番ということになる。その番号は常に同一ではなく、その時の編成や状況に応じて随時変更されるもので、それに伴い記号もまた変化することになる。(特3型の響の場合、開戦から終戦までに写真で確認できるだけでも、「い」→無印→◯→□→◯ と変化している)
開戦時、特型駆逐艦の大部分は三水戦に所属していて、その艦船番号記号は図形であった。一番艦は無印、二番艦は◯、三番艦△、四番艦□というもので、「一番煙突両舷鼠色部ノ上端ニ白色ヲ以テ示ス」とあり、その体裁は下図のようなものであった。
その三水戦の開戦時の編成状況は下記の通り
開戦早々、東雲と狭霧を失った三水戦は12駆を解隊し、3個駆逐隊に再編成される。それが昭和17年3月のことで、その際の状況が下記になる
※綾波が四番艦に移動しているのは、2月に触礁による推進器損傷があったため。5月以降は開戦時同様の編成に戻っている。
写真は昭和17年刊「大東亞戰爭海軍作戰寫眞記録」の中にある「昭南軍港壓すわが艨艟」と題された写真の一部である。二隻の特Ⅰ型の煙突には艦船番号の標識が見える。これが開戦時の三水戦の塗装である。煙突のマーキングだけではなく、全体の塗装、主砲基部の防水布も含め、各部のカンバス部がすべてグレイになっていることにも注目していただきたい。これは三水戦信令第一九三號『臨戦準備第二作業後モ展張シ置クベキ天幕並ニ側幕類(射撃指揮所、艦橋、測的所、探照灯台及機銃台側幕等)砲眼孔覆其ノ他必要ト認ムル諸覆ハ12月3日中ニ「ネズミ」色ニ塗粧スベシ』によるもの。黒く写っているのは逆光だからではない。
奥の艦は烹炊所煙突の形状と、探照灯後の方探が無い事から「叢雲」であると考えられる。次に叢雲の2番煙突〜1番煙突〜艦橋頂部までの輪郭をとってみる。そしてそれをそのまま手前の艦に重ねてみる。すると手前の艦は1番煙突がやや低いことがわかる。先に煙突編で吹雪と初雪は他の1型よりも1番煙突が若干低い(他艦が少し高い)と指摘したかと思う。初雪ならば無印のはずだ。すなわち手前の艦は「吹雪」で、写真は「叢雲」が11駆に編入された3月以降に撮影されたものであることがわかる。これは17年3月頃の吹雪と叢雲の艦影なのである。
戦時中の駆逐艦の識別システムについて
開戦時には各水雷戦隊でバラバラであった艦船番号記号だが、昭和17年5月20日、GF信電令第四七号により図形記号に統一されることになった。曰く「1sd、2sd、3sd、4sd、10s(注:一〜四水戦及び十戦隊の意)駆逐艦隊名艦名塗粧中二番艦以下艦船番号順序ニ煙突両側ニ圓三角四角(大サ八十糎白色)ノ標記ヲ附スルコトニ定ム」。同年春には従来通りの煙突の帯も復活して、おおまかに言うとミッドウェイ海戦以降の一〜四水戦(及び十戦隊)所属艦は、「駆逐隊記号の帯」プラス「艦船番号の図形」というのが標準塗装になる。この組み合わせは理論上、全く同じものが同時には存在しないので、艦名同様の個艦標記ということになる。したがって戦時日誌等で所属と艦船番号さえわかれば個艦の特定が可能なのである。(とは言うものの実際には所属も編成もかなり錯綜していて資料にも欠落があったりで、色々むずかしかったりするのだが)
ここでひとつ例題を解いてみよう。
「日本駆逐艦史」(新版)のP105に「昭和18年5月横須賀における初春型」という写真がある。問題の艦は一番煙突に帯2本、二番煙突に帯1本が記入されている。これは四水戦の2番隊を示している。さらに二番煙突には三角形が標されていて三番艦であることがわかる。ここで「第4水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(C08030116600)」を調べてみると、この時期の四水戦の編成は一番隊2駆、二番隊27駆で、27駆の内訳は一番艦から、時雨、有明、夕暮、白露となっている。したがって写真の初春型は「夕暮」ということになる。
また、編成から記号を推定することも可能で、例えば第3次ソロモン海戦における綾波は、写真も記録もないが、三番艦であったとの証言(「艦長たちの太平洋戦争」P183)などから、一番煙突に三角形、二番煙突に帯三本といういでたちであったと推定される。
ここで念のために申し上げれば、煙突の記号が艦船番号を示すものだというのは、私の新発見でもなんでもなく、知っている人は既に知っていたことだ(70年代の世艦には、一部誤解もあるが、煙突に描かれた記号が艦船番号を示す旨の記述がある)。それが最近、なんだかおかしなことになっているのは大変残念なことだ。この艦船番号記号は連合艦隊から令達された正式なもので、運用とは関係がないなどというのはまったくの誤りである。
昭和20年4月、沖縄に向けて進撃する戦艦大和に随伴したのは、日本海軍最後の水雷戦隊ともいうべき二水戦の駆逐艦群であった。その一番隊は41駆で、編成は一番艦冬月、二番艦涼月というものであった。煙突に1本の白線と白丸を描いた涼月の写真が残っているが、それが何を意味するのか、もはや説明する必要はないであろう。開戦時の特型駆逐艦群を濫觴とする艦番号記号は、その終焉に至るまで、水雷戦隊の識別システムとして機能し続けたのである。
2015.3.4 初出
※注1:ここでいう「ひらがな」とは「いろは」であって、
4番艦を示す「に」には変体仮名(爾:右図)があてられていた可能性がある。
※注2:二水戦の駆逐艦が煙突にひらがなを描いていた写真はいくつか存在するが、これらの艦は機動部隊等に分派されていた艦である。本来の二水戦の記号が何であったか、なお検討の必要がある。
※注3:三水戦の艦船番号の形式は「機密三水戦命令第一一七號 駆逐隊艦船番號標識試行ノ件」による。この命令の日付は12月11日になっているので、12月8日の時点では異なった標識であった可能性もある。ただ11日は作戦中なので、実際にはその前から施行されていた可能性がある。
塗装とマーキング編参考資料
アジア歴史資料センター:第3水雷戦隊戦時日誌 C08030725400 第1水雷戦隊戦時日誌 C08030080700 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報 C08030094600 第4水雷戦隊戦時日誌 C08030112300 第4水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報 C08030116900 近代デジタルライブラリー:「大東亞戰爭海軍作戰寫眞記録」大本營海軍報道部 編纂 ([大本營海軍報道部], 1942) 海人社:『日本駆逐艦史 世界の艦船 2013年1月号増刊』